12月28日 きみの友だち

「プレゼント包装って出来ますか?」

迷走していたのだと思う。友達への誕生日プレゼントを求めて訪れたデパートの中。息抜きのつもりで立ち寄った本屋さん。

「出来ますよ。赤いリボンと緑のリボン、どちらをおかけしますか?」

研修中の名札をつけた店員さんは、穏やかなほほ笑みをそのままに淀みのない口調で対応してくれた。

 

生きていくうち、「余り」はつきものだと思っている。あしたのジョーじゃないけど誰でも彼でも真っ白な灰になんてなれるもんじゃない。あんなはずじゃなかったって後悔や、突き刺してくるような自分に対する認めたくないという気持ちを抱えて、もうほんとまいっちゃうよねぇって頭を掻いて。時にはもう進めないよってお布団を頭からかぶって、じたばたして。それでも自力で進むしかない。

一人は弱い。家族が、友達が、先生が、メディアが。「3÷2=1」だと言う。自分は確かにそれは「1あまり1」だと考える。本当に答えは「1あまり1」なのか。自分ははたして正気なのか。

一人は気楽だ。自分自身は世界を認識する基盤だ。自分の世界に潜り込み、「1あまり1」を検討する瞬間、「私」は「みんな」から自由になれるのだろう。

一方で一人はあまりに寂しいとも思う。自分の認識する世界に他人は確実に存在している。これはどうしようもない、事実だと思う。

だからこそ、他人と多少でも気持ちが重なった瞬間から私は喜びを覚えるのだろう。自分の「余り」を癒してくれる場所を求めるのだろう。

 

「一緒にいなくてもさびしくない相手が友達だと思うけど。」

 

『きみの友だち』のえみちゃんの言葉だ。

 

プレゼントを選ぶのは楽しい。相手に喜んでもらえるものをあれやこれや想像しつつ商品を眺める時、私は一人であることから開放される。

だからこそ、独り善がりなものを押し付けては、一人であることに逃げ込んではいけない。

 

「わたしは『みんな』を信じない。いなくなっても一生忘れない友達が一人いればいい。」

 

その言葉を読むたびに燃え滓が燻った自分を許せるような気持ちになるとともに、ほんとにちょっとだけ、寂しくなる。

この本に出てくるお話は、どれもこれも本当の意味では解決しない。「余り」が微妙に残される。

「余り」こそ、一人で立ち向かうべきところなのだろうと思う。だから私は一人で在りたいし、そのうえでみんなの中に在りたい。

 

赤いリボンのかかった小さな箱を受け取る。やっぱり何か、違うものを探そうと思いながら。

最高のプレゼントを求め、私は次のお店のドアをくぐる。