12月31日 刻貪りし

玄関に置かれた花が、ポインセチアから餅梅と菊に変わった。

母親から貰った鏡餅を机の上に飾り、かすかに聞こえる除夜の鐘に耳を預けていると、しみじみ新しい年が来たのだなという実感が湧いてくる。

12月27日を節目に一日一題文章を書くという目標を立てた。

12月31日。てんやわんや大学のレポートをこなし、掃除を終わらせ、さぁ一安心と推しアイドルの情報を漁るうちに新年を迎えてしまうというなんとも情けない体たらく。掃除から解放された後即座に書けば年内に終わったろうに。

まあ、いの一番に昨年の宿題を消化する元旦も、過去の負債に誠実に向き合う姿勢を示していると捉えれば、ちょっと良い人になれたような気分に浸れるから。悪くはない。

他人との関係性の中での個人の言動を通貨に例えることが出来るとしたら、私の口座は大赤字になっていることだろう。

身近な他者。母親や父親や弟は、私自身は忘れてしまった私の過去の言動をおそらく知っている。厚い層のようになったその印象を認識に含めつつ、今の私と接している。それを思うと頭があがらない。

笑い飛ばせない負債を抱えこんでいるという事実ばかり知っているが、その内訳を私はよく知ろうとしていない。時間の経過に任せて無理やり清算しきろうとしている。反省がないのかもしれない。

四日後に成人式を迎える。旧友に会うと、知ろうとしていない負債を眼前に叩きつけられそうで、それが恐ろしいばかりに参加をすることが怖い。

忘れてしまったし、知りたくもない反面今の私を語る上で恐らくその負債の存在は欠かせないのだろうとも思う。その辺の認識をおぼろげにしたままでもいいのだろうか。

現実は美容室も予約してしまったし、なにより母親が乗り気で、行かざるをえないことになりそうだ。

『餓鬼の如く刻貪りし年逝くも』と過ぎ行く年を回顧したのは藤田湘子さん。貪るばかりでは成長はない。