なぜ私は今安定しているのか

今一番感じている違和感を表題にしてみた。
筆が乗っているのでついでにここら辺もゆるゆる分析しようかなと思いつつ。

現状を鑑みて元気すぎる己に対して。

この認識は良くないかな。好んで自己憐憫に己を誘導してしまいそう。

ぼっちで、楽しいわけでもないTwitterに入り浸って、暇さえあれば本を読み、生活の8割虚空を見つめる。なにをするわけでもなく。

大学は本を提供してくれる場でしかなく、社会との接触はそれこそフォロワーと家族くらい。

元気だと思う。悩みなんて、強いていえばこの停滞しすぎている日常に対する鬱屈とした抵抗感。それくらいかな。

安定の大きな要因として、「独り善がりな自尊心の充実」は欠かせないと考えている。私は今の自分がとても好きだ。人にイラつくことも、妬みを覚えることもなく、思い浮かぶ思念は優しいものが多い。優しい思想を内に秘めている自分が大好きだし、それを持って今の自分の全存在を肯定しているところがある。これが曲者である。

対岸からならいくらでも一般論は言える。

また、外的な調和なくして内的な調和は成り立たない。

私が信じたい倫理規範は現実にそぐわないものだという自覚はある。より地に足のついた思想で動く人がいるのは当たり前のことだと思うし、それでも自分を突き通したいのならば理想と現実の間の深い谷を飛び越える「実践」が欠かせないとも思う。私はこの点が欠けている。にも関わらず、夢を語ってさも良い人になりきったかのような自己陶酔に浸っている。

現状の私は、だから周囲に容易く振り回されてしまう程度に脆弱で、故に不確定なものに頼るのが怖い。他人しかり、自分を揺らしてくるものに近づきたくない。

こうして文字に起こしてみると、改めて己の脆さを痛感させられる。

結局私は独りよがりな夢の世界に生きて満足していただけなのではと思わずにはいられないし、自分の信用のできなさを日々問いかけながら自己欺瞞に陥っていたことが本当に情けない。

この認識は、結構根深くついているように思う。目を背けたくなるが、問題を先送りにしては解決は程遠い。だから、向き合わなくちゃいけないし、現実に働きかけねばいけない。と、口だけは勇ましく言ってみる。長年培われた反応パターンな気がしなくもないけど、とにかく、長い戦いになりそうな予感。

どうしてこんな考えを持つようになったのか。

言語化は大切だ。

自分の中で渦巻く不安を吐き出して、一つ一つを検討して、今やるべき最良の道を考えること。これが私に必要なことなのだろう。