12月21日

今日の夢は家の隣にコロッケ屋さんができるという平和なものだった。美味しそうな匂いが昼夜漂ってくるからもうたまら〜んって思ったところで覚醒。一面の青空。私の寝床はちょうど南向きの窓の真下にあるので、起きるたびに空が視界に入る。密かに気に入っている。

 

「死にたい」や「寂しい」という発言を看過してくれない人がいる。言い手としては「眠たい」「ラーメン食べたい」と変わらない感覚で言っている。ただのつぶやきだと。そういう言葉で己に寄せられた批判に返答されている方を観測した。

Twitterは面倒くさい。書き手の内なる意識や価値は読み手の受け取り方と必ずしも一致しない。ちなみに私は、外界に寄生しない「在り方」を一人一人の人間が獲得して欲しいと本気で考えているし、私個人として人を害する行為や貶める行為、また手前勝手な欲望はそれの実現を阻むものとして、調和を害するものとして嫌っている点がある。このあたりが極端で、だから私の考えていることは現段階では私の脳内の試験管の中を漂うことしか出来ない。これらは、これから先の文章を読む上での前提として捉えていただけるとありがたい。

常々、己の欲望や感情は多くの場合自己欺瞞のフィルターで濾されて出現するように感じている。

これを必ずしも悪いものとは思わないとする向きもある。内的な欺瞞を持って現実を良い方向に動かすことが達成されるのなら、それで良いのではと。

私はこの点承服しかねる。都合よく現実を捉え、個人的な欲望を達成できたにせよ、その工程で切り捨てられた視点の被害者がその後ろには累々と積み重なることになるのではないか。潰される側にも尊厳はあるし、排除した上に「調和」らしきものが広がっているのだとしても、それは条件付きのものでしかないし諦念を感じずにはいられない。例え意思や感情を持たないように見える植物であろうと、虐げられることを許してはいけない。地球という星に生物としての人間が存在する限り、それらに対する視点を欠くことは広義で、同族たる人間に対する思慮を欠くことと同義だと考える。

長くなってしまったが、恐らく「死にたい」という発言に引っ掛かりを抱き糾弾したその人の視界の「他者」は、その瞬間、己の言葉をぶつけるサンドバック。下手をしたら消滅さえしていたのだろう。殴りつけた。

それを本当に、本人はやりたかったのか?違うと思う。自分しか見えていなかった、自分の中のなんとも言い難い気持ち、葛藤があったんじゃないかなと信じたい。

「死にたい」は「眠たい」と同じ感覚で発する言葉ではなかった。より重みのある言葉だった。だから、「眠たい」という感覚で死にたいを発する人を看過できなかった。自分の苦しみしか、見えなかった。

個人的に糾弾者の気持ちはとても理解できる。「眠たい」も「ラーメン食べたい」も個人的な行動の範囲で収束可能な欲望だ。「寂しい」や「死にたい」は意思や行動ではなんともしがたい面があるように思う。

その認識の差、違和感をお互いにぶつけて傷つけあっているようにさえ見える様子はとても痛々しかった。発端はもちろん、糾弾者側の不尊重だが、発言者もそれを受け止められなかった。発言者にとって糾弾者は「理解する必要も無い存在」でしか無かった。「糾弾者」は「糾弾者」としてしか受け止められなかった。これは飛躍のし過ぎかな。。

これが繰り広げられたのはTwitter。変な話、フォローもフォロワーも会員制のサロンに好んで集まっている仲間という面が強い。意見や言動が気に食わない人はブロックすれば良いという発言は至る所で見受けられる。

私自身、尊重し合うことが難しい他者とどうか変わるべきなのか、そもそも分かり合うこと自体可能なのか、一人の人間として、できる気があまりしない。

お互いに対する思慮を欠く状態そのものに問題がある。この点については大きすぎて大きすぎて、個人的な範囲内での調和を保つ事は出来るのかもしれないが、それにそぐわない人間を否定するのも違うし、精々意見の異なる色々の人の見解を聞いて、より現実的な形に昇華出来るといいなとか、そんな夢みたいなことを考えている。試験管の中でしか通用しないようなふわふわな思念が恨めしい。

私は今、内的な意志に反することに向かおうとしている。その意志が欺瞞であると分かった以上、突き詰めて苦しんででも率直なものに昇華させたい。そのために今目を背けている願望と向き合って乗り越えたいと。

その道中、より率直な気持ちを確認するためにも、私自身、ここでまとめた点については折々思い返したいなと思った。そして、現実によりそぐわせる方法や、欺瞞を検証したいなと思った。