12月24日

私は他者を尊重できる自分でありたいと強く望んでいます。ところが、現状の私が最も受け入れを困難としているのは、「自分を尊重しようとしない他者」なのかもしれません。

 

 

私は自分の捉える主観的な世界の自分を愛しています。だからこそ、他人から自分の感じていることや、信じたい価値を否定されると、感情的に取り乱してしまうことがよくあります。

一方で、他人が捉える、客観的な世界の自分は、主観としての私からするとふさわしくないように思えても、間違ってはいないと思うんです。

相手の主観と私に向けられた客観が入り交じった世界と思うと、とても禍々しいものに思えますが、それでも確かに在るものなんだと思います。その主観と、私の行動が生み出した相手の客観を尊重するということ。

感じ方等々の微妙な違いをすり合わせて、より近い距離で相手と向き合う。これを繰り返せば、他者との自己同一性を見出すことも夢ではないのでは。

そんなことをなんとなーく思った深夜でした。

ほんとはもっと丁寧に書き止めようと思いつつ、めちゃくちゃいま眠たくて。幸せなことですね。。。

12月23日

気持ちは12月22日に置いてきている感じなので、表題をつけつつ自分で不思議がってる。

眠たいのに眠れない。この分だといつも通り午前4時頃まで眠れない。。。?!?それは困るな。私4時間は寝ないと起きれない子なのに。そんなことを思いつつ、壁を見つめ、ぼんやりしてる。

 

あと4日で20歳になる。

誕生日までの日数を指折り数えていたのは、1つ上がる事に「大人」に近づけるようなワクワク感を抱いていたのは、何年前の話なのだろう。

「未来」や「夢」という言葉より、「将来」という単語は生々しく感じる。近未来というか、欺瞞のしようのない、笑い飛ばせないなにかをなんとなく、感じてしまう。

「進路」のなかから、私は「進学」を選び、「志望校」を決め、今にいる。2年後の今頃は「就職先」が「将来」を示すことになるのだろうか。あと20年もしたら、「老後」なんて言葉も使うようになるのかもしれない。

19歳も暮れているというのに、私は未だに鉄棒の逆上がりが出来ないし、昔は密かな自慢だった視力は、3m先さえ怪しいほどに落ちた。人と語らうこともせず、長方形の板に日々文字を打ち込んでいる。相変わらず朝には弱いし、セロリは嫌いだし、算数は苦手。日々の自分の行動や思考さえ、満足に制御できない。

もっと颯爽とした未来を想像していたような気がするんだけどな。

もう私は、「将来」を語ることしか出来ないのかもしれない。それが少し悲しい。

今、わたしの枕元には5冊、本がつんである。外出する時でも文庫本は手放さないし、文章を書くことも大好き。

このあたりは、小学生の頃からなんにも変わってない。とても嬉しい。

 

 

私は「他人を見ること」が苦手だ。

これは、一元的な価値に囚われているという言い方もできると思っている。

前の記事では不尊重について書いたが、これこそがまさに他人が見えていないという状態なのだろうと感じている。

春には桜が咲く。桜といえば、何を思い浮かべるのか。

京都に進学し、入学式当日、満開の桜を見た時の驚きと陶酔とは忘れられない。前日に見た地元の桜はまだ柔らかい花びらを恥ずかしそうにすぼめていたので、思いがけない爛漫たる光景の不思議にしばし頭上を仰いだことを覚えている。

九州出身のある女の子が、桜は「卒業・受験」を背景にあるものだと思っていたからこの光景が新鮮だと語っていた。

東北出身の人なぞ、「桜は四月末辺りに咲くものだと思っていた!」と。

思い返すと、物語の卒業のシーンに桜の花吹雪の取り合わせは比較的よくみかけるが、それは入学でも言える話。

地方によって「桜」の季節とその印象は変わるのだなと、当たり前ながらしみじみと感じた。

頭の中では「北海道と沖縄では桜の季節は違うだろう。」と分かっていても、つい、細かい、理解に通じる確かな違いについておろそかにしてしまう傾向があるように思う。

東京で桜を見ている時、北海道は雪が降っていて、沖縄では海開きが行われている。

京都で雨が降っていても、大阪では降っていないかもしれない。同じ日本でも、確かに違いはある。

結局、そこなのだろうなと思う。

「辛い」にも、たくさんの「辛い」がある。

「出来ない」にも、たくさん、種類がある。

「大学生」にも、「蛇」にも、「教育」

にも、たくさんの次元がある。このことをついつい忘れているように思う。

Twitterを開く。TLを流れるツイートを眺めつつ、他者を「枠」で囲う。

私のやりがちなことだなと、内省している次第です。

12月21日

今日の夢は家の隣にコロッケ屋さんができるという平和なものだった。美味しそうな匂いが昼夜漂ってくるからもうたまら〜んって思ったところで覚醒。一面の青空。私の寝床はちょうど南向きの窓の真下にあるので、起きるたびに空が視界に入る。密かに気に入っている。

 

「死にたい」や「寂しい」という発言を看過してくれない人がいる。言い手としては「眠たい」「ラーメン食べたい」と変わらない感覚で言っている。ただのつぶやきだと。そういう言葉で己に寄せられた批判に返答されている方を観測した。

Twitterは面倒くさい。書き手の内なる意識や価値は読み手の受け取り方と必ずしも一致しない。ちなみに私は、外界に寄生しない「在り方」を一人一人の人間が獲得して欲しいと本気で考えているし、私個人として人を害する行為や貶める行為、また手前勝手な欲望はそれの実現を阻むものとして、調和を害するものとして嫌っている点がある。このあたりが極端で、だから私の考えていることは現段階では私の脳内の試験管の中を漂うことしか出来ない。これらは、これから先の文章を読む上での前提として捉えていただけるとありがたい。

常々、己の欲望や感情は多くの場合自己欺瞞のフィルターで濾されて出現するように感じている。

これを必ずしも悪いものとは思わないとする向きもある。内的な欺瞞を持って現実を良い方向に動かすことが達成されるのなら、それで良いのではと。

私はこの点承服しかねる。都合よく現実を捉え、個人的な欲望を達成できたにせよ、その工程で切り捨てられた視点の被害者がその後ろには累々と積み重なることになるのではないか。潰される側にも尊厳はあるし、排除した上に「調和」らしきものが広がっているのだとしても、それは条件付きのものでしかないし諦念を感じずにはいられない。例え意思や感情を持たないように見える植物であろうと、虐げられることを許してはいけない。地球という星に生物としての人間が存在する限り、それらに対する視点を欠くことは広義で、同族たる人間に対する思慮を欠くことと同義だと考える。

長くなってしまったが、恐らく「死にたい」という発言に引っ掛かりを抱き糾弾したその人の視界の「他者」は、その瞬間、己の言葉をぶつけるサンドバック。下手をしたら消滅さえしていたのだろう。殴りつけた。

それを本当に、本人はやりたかったのか?違うと思う。自分しか見えていなかった、自分の中のなんとも言い難い気持ち、葛藤があったんじゃないかなと信じたい。

「死にたい」は「眠たい」と同じ感覚で発する言葉ではなかった。より重みのある言葉だった。だから、「眠たい」という感覚で死にたいを発する人を看過できなかった。自分の苦しみしか、見えなかった。

個人的に糾弾者の気持ちはとても理解できる。「眠たい」も「ラーメン食べたい」も個人的な行動の範囲で収束可能な欲望だ。「寂しい」や「死にたい」は意思や行動ではなんともしがたい面があるように思う。

その認識の差、違和感をお互いにぶつけて傷つけあっているようにさえ見える様子はとても痛々しかった。発端はもちろん、糾弾者側の不尊重だが、発言者もそれを受け止められなかった。発言者にとって糾弾者は「理解する必要も無い存在」でしか無かった。「糾弾者」は「糾弾者」としてしか受け止められなかった。これは飛躍のし過ぎかな。。

これが繰り広げられたのはTwitter。変な話、フォローもフォロワーも会員制のサロンに好んで集まっている仲間という面が強い。意見や言動が気に食わない人はブロックすれば良いという発言は至る所で見受けられる。

私自身、尊重し合うことが難しい他者とどうか変わるべきなのか、そもそも分かり合うこと自体可能なのか、一人の人間として、できる気があまりしない。

お互いに対する思慮を欠く状態そのものに問題がある。この点については大きすぎて大きすぎて、個人的な範囲内での調和を保つ事は出来るのかもしれないが、それにそぐわない人間を否定するのも違うし、精々意見の異なる色々の人の見解を聞いて、より現実的な形に昇華出来るといいなとか、そんな夢みたいなことを考えている。試験管の中でしか通用しないようなふわふわな思念が恨めしい。

私は今、内的な意志に反することに向かおうとしている。その意志が欺瞞であると分かった以上、突き詰めて苦しんででも率直なものに昇華させたい。そのために今目を背けている願望と向き合って乗り越えたいと。

その道中、より率直な気持ちを確認するためにも、私自身、ここでまとめた点については折々思い返したいなと思った。そして、現実によりそぐわせる方法や、欺瞞を検証したいなと思った。

12月20日

ものを書くと落ち着くかと思ったけど、むしろムリョクカンが生産されてしまった感じがあるのでゆるゆると今日を振り返ってお茶を濁そうと思う。

朝起きて、部屋を掃除して、大学に行って、散歩をして、帰宅し即ご飯を作って、のんびり宙を眺めて、手紙を書いて、寝て、英語をした。

散歩をしつつ、「そろそろレポート書かんとまずいんちゃう私?」って思念はよぎったもののフンヌッて押し殺した。

なにをしていたんだ。。。私は。。。

レポートが終わる見込みはたたぬまま、本日4本に増量をされる運びとなった。

調べものもしなければならぬし期末もある。

正直全部どうでも良い。やらなくても二月も三月も四月もやってくる。

そういう気持ちはある。未来の自分が困るだけなんだけど、実感がどうも迫ってこない。

最悪どれを先に片付けるか、レポートの優先順位でも立てるか。書けなかったらそれはそれ。これはこれ。ダメな子ですねぇ。

頭が疲れちゃったからもう寝る。

Twitterを見ていると、なんか、私はそこに溶け込めないんだろうなみたいな諦念に似た無力感を感じる。誰とも仲良くなれる気がしない。自業自得とはいえ、少し悲しい。フォロワーさんもそう感じているのかな。だからこそ、交われないと思いつつ、誰からも反応をもらえないであろう思念を流す時は虚しい。じゃあ何故流すのか。自己暗示なんですよ、結局自己の望む自分を再確認しているんですよ。(適当)

こういうことをここに書くのも、迂遠な甘え、擦り寄りが見えるから苦しい。許されたいけれども許そうと思って他人を見ていない。自分に必死。ここら辺は昔から変わらない。本質として押さえておきたい。私は自分に必死。自分しか見えてない。

いつか人と関われる自分に会いたい。もう少し余裕が欲しいね。。開けど開けどマトリョーシカとか、そういうのはやめてね私。。

 

にしても。。相変わらず文章がド下手で悲しくなりますね。

なぜ私は今安定しているのか

今一番感じている違和感を表題にしてみた。
筆が乗っているのでついでにここら辺もゆるゆる分析しようかなと思いつつ。

現状を鑑みて元気すぎる己に対して。

この認識は良くないかな。好んで自己憐憫に己を誘導してしまいそう。

ぼっちで、楽しいわけでもないTwitterに入り浸って、暇さえあれば本を読み、生活の8割虚空を見つめる。なにをするわけでもなく。

大学は本を提供してくれる場でしかなく、社会との接触はそれこそフォロワーと家族くらい。

元気だと思う。悩みなんて、強いていえばこの停滞しすぎている日常に対する鬱屈とした抵抗感。それくらいかな。

安定の大きな要因として、「独り善がりな自尊心の充実」は欠かせないと考えている。私は今の自分がとても好きだ。人にイラつくことも、妬みを覚えることもなく、思い浮かぶ思念は優しいものが多い。優しい思想を内に秘めている自分が大好きだし、それを持って今の自分の全存在を肯定しているところがある。これが曲者である。

対岸からならいくらでも一般論は言える。

また、外的な調和なくして内的な調和は成り立たない。

私が信じたい倫理規範は現実にそぐわないものだという自覚はある。より地に足のついた思想で動く人がいるのは当たり前のことだと思うし、それでも自分を突き通したいのならば理想と現実の間の深い谷を飛び越える「実践」が欠かせないとも思う。私はこの点が欠けている。にも関わらず、夢を語ってさも良い人になりきったかのような自己陶酔に浸っている。

現状の私は、だから周囲に容易く振り回されてしまう程度に脆弱で、故に不確定なものに頼るのが怖い。他人しかり、自分を揺らしてくるものに近づきたくない。

こうして文字に起こしてみると、改めて己の脆さを痛感させられる。

結局私は独りよがりな夢の世界に生きて満足していただけなのではと思わずにはいられないし、自分の信用のできなさを日々問いかけながら自己欺瞞に陥っていたことが本当に情けない。

この認識は、結構根深くついているように思う。目を背けたくなるが、問題を先送りにしては解決は程遠い。だから、向き合わなくちゃいけないし、現実に働きかけねばいけない。と、口だけは勇ましく言ってみる。長年培われた反応パターンな気がしなくもないけど、とにかく、長い戦いになりそうな予感。

どうしてこんな考えを持つようになったのか。

言語化は大切だ。

自分の中で渦巻く不安を吐き出して、一つ一つを検討して、今やるべき最良の道を考えること。これが私に必要なことなのだろう。

 

なぜ再開しようと思ったのか

いつもTwitterでいろんなことを書きすぎている気がして、恐らくそれでTLを占領されたりしている方もいるのではないかなと思ったのでこっちをまた稼働させてみる。

 140字という手狭な環境でツイートしていてはどうしても一つ一つの文脈が分断されてしまうから、そこでちょっとした思考や感情の空白が生まれているのではないかと常常感じていたというのもあるし、ある程度他人に見られることを意識した上で、まとまった、綺麗な文章を書く練習をしたかったというのもあるけど、ここまでは多分表向きの理由なのかなって思う。自意識が大きくなっている時、ひっそり水を流し込むプールが欲しかったが本音なのかも。

今の気持ちはこんな感じかな。

ごめんねぇブログさん。こんな場所に生まれたくなかったよね。

 

この手の文章をこのブログに投稿するの三回目なんだよね。。いかに私が飽きっぽいか、うむむ。。継続。したいわね。出来るわよ。気合いよ気合い。

久々に読み返すと過去の自分が可愛くて可愛くて。たまらん。ハァハァ。

やっぱりブログは残すべきやな。

今はとても安定しています。過去の記事を読み返して、なんちゅう人生楽しそうな人やって、なんか羨ましく感じちゃったくらい刺激のない生活をしています。

過去の記事で指摘されたことが改善された自覚はありません。

これはこれでなんとなーく嫌だなぁと思わなくも南雲穂波なので、なんとかしたい。(ざっくり)

ところで後期の初め頃に書いた記事も発掘されて、読んでみたら「こいつ誰?」って感じの意欲の塊を無事確認。

おそらく現実の自分と葛藤するのもめんどくさくまあ適当で良いよねって流したんだろうなーーー願望ーーーーー。

これ、高校時代まさにこれだったのでは。多分それに「集団の中での無力感」と思春期特有の「野放しの自意識」が付加されると多分高校に戻れてしまう気がする。

やっぱり私の人生は浪人期をちゃんと乗り越えられていないようです。南無。

ちゃんと葛藤してあげたいね。