私は「他人を見ること」が苦手だ。

これは、一元的な価値に囚われているという言い方もできると思っている。

前の記事では不尊重について書いたが、これこそがまさに他人が見えていないという状態なのだろうと感じている。

春には桜が咲く。桜といえば、何を思い浮かべるのか。

京都に進学し、入学式当日、満開の桜を見た時の驚きと陶酔とは忘れられない。前日に見た地元の桜はまだ柔らかい花びらを恥ずかしそうにすぼめていたので、思いがけない爛漫たる光景の不思議にしばし頭上を仰いだことを覚えている。

九州出身のある女の子が、桜は「卒業・受験」を背景にあるものだと思っていたからこの光景が新鮮だと語っていた。

東北出身の人なぞ、「桜は四月末辺りに咲くものだと思っていた!」と。

思い返すと、物語の卒業のシーンに桜の花吹雪の取り合わせは比較的よくみかけるが、それは入学でも言える話。

地方によって「桜」の季節とその印象は変わるのだなと、当たり前ながらしみじみと感じた。

頭の中では「北海道と沖縄では桜の季節は違うだろう。」と分かっていても、つい、細かい、理解に通じる確かな違いについておろそかにしてしまう傾向があるように思う。

東京で桜を見ている時、北海道は雪が降っていて、沖縄では海開きが行われている。

京都で雨が降っていても、大阪では降っていないかもしれない。同じ日本でも、確かに違いはある。

結局、そこなのだろうなと思う。

「辛い」にも、たくさんの「辛い」がある。

「出来ない」にも、たくさん、種類がある。

「大学生」にも、「蛇」にも、「教育」

にも、たくさんの次元がある。このことをついつい忘れているように思う。

Twitterを開く。TLを流れるツイートを眺めつつ、他者を「枠」で囲う。

私のやりがちなことだなと、内省している次第です。