1月14日

 暖房代さえ惜しく、あらん限りの厚着をし、身を縮めつつ熱い紅茶をすすることで寒さに立ち向かっていた12月初旬の私。今や起床とともにエアコンをつけ、就寝とともにエアコンを消す腑抜け者に成り下がってしまった。必要最小限以上の動きをとることを避けていた家事が今はとても楽しい。文明万歳。

 というわけで、ぬくぬくとあったまった部屋の中で数日ぶりに日記を書いている。一日一文なぞいう大言壮語を吐いていた年末の自分が憎らしい。いつものことと言ったらそれまでではあるが、せめて文章くらいは思うように書けるようになりたいので、出来る限り更新するようにしたい。願望系。

 友人の受験必勝の願掛けのため、石清水八幡宮にお参りに行った。

現地に着いたのはちょうど13時あたり。小高い山の上にあるようで、ケーブルカーも通っていたが運賃惜しさに徒歩で登ることにした。年季の入った銀行とスーパーの横を通り抜け、山に向かう。名の通った寺社の最寄である割に眠たそうな雰囲気が漂っており、レポートと差し迫ったテストとにキリキリしていた気持ちが癒されたような気になった。山道が見えた。歩調を早める。今時分は数学か。舗装された階段を登る。山際にある家々の庭の様子が伺えて、これでは嫌でも手入れするしか無くなりそうだなと思った。ほどなく雑木林の中に連れ込まれる。木漏れ日が差し込む中、会社帰りと思しきスーツ姿のサラリーマンが息を切らせつつえっちらおっちら登っているかと思えばダンディなおじさまが赤い口紅の妙齢のお姉さんを伴って登っていたりもする。どんな関係なのだろう。夫婦にも思えないがと下衆なことを勘ぐってしまう。足音以外静かな空間だった。

 右肩にかかった鞄が子泣きじじいにでもなってしまったかのように圧迫してくる。堪らず反対の方にかけなおす。登り始めて15分はたっただろうか。代わり映えのしない雑木林に辟易としだしていた目に鮮やかな赤が映りこんだ。水の神様のお社だ。水色と緑色で着色された意匠が美しかった。これ幸いと手を合わせつつしばし足を休める。外見はまだ10代後半を自負している以上わかりやすく座り込むのは情けない。そろそろ山頂も近いだろうと奮起し、登る。階段の終わりがすぐ先に見えた。

 期待に反し、広がったのは終わりの見えない緩やかな坂道だった。山頂までの距離を意図して長くしているとしか思えず、神様も焦らすなぁとひとりごちる。なぜ私は好んで山を登っているのだろう?スマートフォンをとりだす。英語の音声を選択し、イヤホンをかける。音が消えた。

  

 祭りのお囃子のような音を微かに聞いた気がした。今度こそ山頂が近いのかと期待しつつイヤホンをとる。風で葉と葉が擦れ合う音だった。ここまで大きな音を出せるのかと意外に思いつつ、なんとなく聞いていたいような気が起こり、耳を預けつつ足を動かす。かすかに人の声が聞こえる。ケーブルカーと展望台の所在を示す標識が見えた。帰りに立ち寄ることを誓いつつ登り進める。とにかく山頂が恋しかった。

 

 登り始めること26分。ようやっと山頂にたどり着いた。まだ数学の時間内か。いつになく丁寧にお辞儀をして、門をくぐる。昨年自宅近くの学問の神様をお参りした時は、神様に頼むことなんてなんにもないし〜と不貞腐れていた。自分の日頃の言動を知っていると調子よく祈る気にさえなれない。大きな矢の形をした柱が交差した独特のデザインのお社は塗り直したばかりなのか妙に色鮮やかで本当にご利益あるんかいと思いつつ二礼二拍手一礼。他人のことになると切実な気持ちでお祈り出来てしまう調子の良さに苦笑い。当人次第とは思いつつも祈る他人の存在が大切なのだと言い訳しつつ、密かな自己満足から豪気な気持ちを得ていつもはもったいないからと買わないお守りを弟と私と友達と、しめて三千円分購入。電気代に換算して二ヶ月分。鳥居に再度一礼、帰路に着いた。

 展望台から眺める町は穏やかな気配に満ちていた。視界に入る中に何人の受験生がいるのだろう。自分の人生に迷っている人もいるだろうし、病気で苦しんでいる人もいるだろう。年収がn千万円に到達している人もいるだろうし、アイドルばりに可愛い子もいるだろう。色々な個人が飲み込まれるように、己を思いつつ生活しているのだと思うと不思議な気がして、じっと見入りつつ、前向きに生きたいものだと、しみじみ思った。合格祈願のお参りに行こうか行くまいか、悩んでいた。自分のことは自分で落とし前をつけるべきだし、お互いの人生に介入しようとしすぎてはいけない。そうは思いつつ、こっそりやる分は罪はなかろうと敢えて何も考えないよう意識してここまで来た。けど、来て良かったと思う。桜のあしらわれた封筒にお守りを入れ、しっかり糊付けした。一人で戦う彼女の、疲れた時に羽を休める場所としての私でありたいと思いながら。

1月2日

お正月二日目。

一年に一度の高い肉のすき焼きを食べた後は京都からの土産に買ってきた180㎖あたり700円の梅酒を三種類空ける。これが美味しかった。

しそはさっぱり飲みやすく、はちみつは濃厚で、濁り梅はねっとりと。

ストレート、ソーダー割り、ロックが合いそう。

やはり食べ過ぎたので散歩がてらお宮参り。体重が意外と増えてなくてびっくり。夜半に強い雨

一日一題文章を書くと決めたものの意外とこれは頭を使うというか、疲れる。書きたいことはあるもののなかなか向き合えない。とりあえず疲れた日は軽い日記みたいな気持ちで、のんびり頑張ります。。。先が思いやられる。ほんとうに。

12月31日 刻貪りし

玄関に置かれた花が、ポインセチアから餅梅と菊に変わった。

母親から貰った鏡餅を机の上に飾り、かすかに聞こえる除夜の鐘に耳を預けていると、しみじみ新しい年が来たのだなという実感が湧いてくる。

12月27日を節目に一日一題文章を書くという目標を立てた。

12月31日。てんやわんや大学のレポートをこなし、掃除を終わらせ、さぁ一安心と推しアイドルの情報を漁るうちに新年を迎えてしまうというなんとも情けない体たらく。掃除から解放された後即座に書けば年内に終わったろうに。

まあ、いの一番に昨年の宿題を消化する元旦も、過去の負債に誠実に向き合う姿勢を示していると捉えれば、ちょっと良い人になれたような気分に浸れるから。悪くはない。

他人との関係性の中での個人の言動を通貨に例えることが出来るとしたら、私の口座は大赤字になっていることだろう。

身近な他者。母親や父親や弟は、私自身は忘れてしまった私の過去の言動をおそらく知っている。厚い層のようになったその印象を認識に含めつつ、今の私と接している。それを思うと頭があがらない。

笑い飛ばせない負債を抱えこんでいるという事実ばかり知っているが、その内訳を私はよく知ろうとしていない。時間の経過に任せて無理やり清算しきろうとしている。反省がないのかもしれない。

四日後に成人式を迎える。旧友に会うと、知ろうとしていない負債を眼前に叩きつけられそうで、それが恐ろしいばかりに参加をすることが怖い。

忘れてしまったし、知りたくもない反面今の私を語る上で恐らくその負債の存在は欠かせないのだろうとも思う。その辺の認識をおぼろげにしたままでもいいのだろうか。

現実は美容室も予約してしまったし、なにより母親が乗り気で、行かざるをえないことになりそうだ。

『餓鬼の如く刻貪りし年逝くも』と過ぎ行く年を回顧したのは藤田湘子さん。貪るばかりでは成長はない。

12月30日 忘れない

「忘れない」ということは省み続けることを意味するのだろうと思う。

古い友達と久しぶりに会って来た。幼稚園から小学校までおんなじで、それからもちょくちょく会って、かれこれ17年の付き合いになるのか。

その割に、私は彼女のことを驚くほど知らない。正確には、知っていたはずなのだけど忘れてしまった。どんな性格なのか、夢はなにか、交友関係はどうだったか、どんな思い出を共有していたのか。

3時間ほどの再開はとても楽しかった。

「親友っている?って質問をこの間されたの。私が他人に抱く親愛の情は常に一定って感覚が強くて、だから"親友"とか、そういう括りをつける人のことはよく理解できない。とりあえず一番の古馴染みだからあなたの名前を出してみた。」

という言葉がうれしかった。

古い記憶をたぐってみる。自分の感情に主眼が置かれたものが大抵で、驚くほど他人との繋がりが出てこない。それが私の業なのか。

今年も早いもので、明日は遂に大晦日。年の暮れを目の前に、やれ文章が下手だ。人間としての厚みが足りていない。と、私事にばかりかまけている現実の自分。省みるほどに奈落の底に落ちるような虚しさを感じる反面、目指したい先があるのは幸せなことだと慰めつつ。

私はどこに向かおうとしているのだろう。

12月29日 星と言葉

「天に星、地に泥棒、人は乞食。」と言ったのは、明治の天文学者野尻抱影だ。西洋と東洋を星空で結びつけることを志し、日本独自の星の歴史、民話を収集したことで知られる。意味を尋ねる記者に対し、

「星も泥棒も乞食も、手の中には何もないということですよ。そういう純粋無雑なものって、いまないでしょう?」

と答える。なんとも憎めない人柄をうかがい知ることが出来る。

星空に溶けこんで、そのままひとつになってしまいたいと思う時がある。今もそうだ。

遠くて、手は届きそうもなくて、それでいてたまらなく美しい。「人は死んだらお星様になるんだよ。」という言葉がふっと浮かんだ。そんなに簡単に、なれるものなのだろうか。

納得のいく文章という、とても漠然とした星を追っている。冒頭最初の一文は読者を引き込むものでなければ。読みやすく、理解しやすいものを。読み応えもあってほしい。理想ばかり、雪だるまのように膨らんでいる。星は、純粋無雑なものでなかったか。

星の王子さま』で知られる作家サンテグジュペリは城砦の中で

「人間はなにかの仕事に打ち込んで、自分のすべてをそれに献げることによって、自分の生命をそれと交換する。その人間はやがて年老いて死ぬが、死ぬとき、その両手は星でいっぱいなのだ。」

という思想を示した。道程はなかなか険しそうだ。

虚飾の星じゃあいかにも侘しい。狙うなら当然、本物が良い。地に足をつけて、足元に気をつけつつ、1歩ずつ。時折天空の星を眺める眼差しを曇らせることなく生きていたい。

「一カ月に一度くらいは、自分が地球の上に乗って回っているんだということを思い出しなさいね。」

これも、野尻抱影の言葉である。

 

12月28日 きみの友だち

「プレゼント包装って出来ますか?」

迷走していたのだと思う。友達への誕生日プレゼントを求めて訪れたデパートの中。息抜きのつもりで立ち寄った本屋さん。

「出来ますよ。赤いリボンと緑のリボン、どちらをおかけしますか?」

研修中の名札をつけた店員さんは、穏やかなほほ笑みをそのままに淀みのない口調で対応してくれた。

 

生きていくうち、「余り」はつきものだと思っている。あしたのジョーじゃないけど誰でも彼でも真っ白な灰になんてなれるもんじゃない。あんなはずじゃなかったって後悔や、突き刺してくるような自分に対する認めたくないという気持ちを抱えて、もうほんとまいっちゃうよねぇって頭を掻いて。時にはもう進めないよってお布団を頭からかぶって、じたばたして。それでも自力で進むしかない。

一人は弱い。家族が、友達が、先生が、メディアが。「3÷2=1」だと言う。自分は確かにそれは「1あまり1」だと考える。本当に答えは「1あまり1」なのか。自分ははたして正気なのか。

一人は気楽だ。自分自身は世界を認識する基盤だ。自分の世界に潜り込み、「1あまり1」を検討する瞬間、「私」は「みんな」から自由になれるのだろう。

一方で一人はあまりに寂しいとも思う。自分の認識する世界に他人は確実に存在している。これはどうしようもない、事実だと思う。

だからこそ、他人と多少でも気持ちが重なった瞬間から私は喜びを覚えるのだろう。自分の「余り」を癒してくれる場所を求めるのだろう。

 

「一緒にいなくてもさびしくない相手が友達だと思うけど。」

 

『きみの友だち』のえみちゃんの言葉だ。

 

プレゼントを選ぶのは楽しい。相手に喜んでもらえるものをあれやこれや想像しつつ商品を眺める時、私は一人であることから開放される。

だからこそ、独り善がりなものを押し付けては、一人であることに逃げ込んではいけない。

 

「わたしは『みんな』を信じない。いなくなっても一生忘れない友達が一人いればいい。」

 

その言葉を読むたびに燃え滓が燻った自分を許せるような気持ちになるとともに、ほんとにちょっとだけ、寂しくなる。

この本に出てくるお話は、どれもこれも本当の意味では解決しない。「余り」が微妙に残される。

「余り」こそ、一人で立ち向かうべきところなのだろうと思う。だから私は一人で在りたいし、そのうえでみんなの中に在りたい。

 

赤いリボンのかかった小さな箱を受け取る。やっぱり何か、違うものを探そうと思いながら。

最高のプレゼントを求め、私は次のお店のドアをくぐる。

12月27日

花を買おうと思っていた。両手いっぱいの、持つのが苦しいくらい大きな花束を買って、ケーキ屋さんを巡る。喫茶店もいいな。本を数冊持って、端末はもちろんお留守番。夜はレイトショー。コンビニで缶ビールを買って、ちょっとだけ飲んだら泥みたいに眠りたい。

19歳の私が考えた、理想の20の誕生日の妄想である。大人なのかガキなのか、わかんねぇなぁと苦笑してしまう。

さっきまで弔辞を集めた文集のようなものを読んでいた。もはやそれを聞くこともできない人へ、届かないけれども言わずにはいられない言葉、ひとつひとつが美しかった。

私に弔辞を読んでくれる人はいるのだろうか。私は誰に対してなら、言葉を飾ることなく弔辞を読めるのだろう。

せめてそういうやつと会ってから死にたいよなぁ。死んでからも、数ヶ月にいっぺんくらいでいいから、あんなやつもいたなぁってひっそり思い返されたり。ううん、生きているうちから、時々思い出してもらいたい。

あんたの誕生日の光景に、他人は存在していなくない?そういう身勝手なところがあんたのガキっぽさの所以なのよ。と、20歳の自分に窘められた。